2013年3月11日月曜日

2年

2011年3月11日午後2時46分。
 
あの日私は福島にいて、焼き菓子用の型や道具の片付けの最中で、
家族とお茶を飲んで一息つき、
さあもうひとふんばり頑張るかと、土間におりたところだった。
 
一昨日の朝にも大きめの地震が3回ほどあったので、
そのときも揺れ始めたときはすぐおさまると思って、
がたがた音をたてる棚を手でおさえたら、
かなり大きく揺れだしたので、慌ててテーブルの下にもぐり込んだ。
窓ガラスがバリバリ音を立て、
家がミシミシと軋むなか、
その大きくて重いテーブルが左右に大きく揺れるのを、
手で必死に押さた。
ガラス戸越しに、
父がストーブを消す姿が見えたが、
それっきりみんなのようすがわからず、
恐怖に陥り混乱していたら、
ガラッと引き戸が開き、姉が「外出るよ!!」と叫んだ。
はっとして、そのまま何も持たず外に飛び出し、
雪解けでぬかるんだ地面に足をとられながらも振り返ると、
築何十年の古民家が、
ひし形にならんばかりに、右に左にと大きく揺れ、
背後にそびえる木々、山までもがゴオオオオとも何とも言いようのない、
異様な音をたてて揺さぶられ、
鳥が飛び、煙がたち、
近所の土蔵の壁が崩れ落ちていき、
停めてある車が上下に跳ね、
このまま底が抜けてしまうのではないかというくらい、
地面がうごめいていた。
 
まだ私が家の中にいると勘違いした母が、
家に向かって私の名前を叫び続けていたので駆け寄り、
スリッパのまま飛び出してきた父の服を握り締めた。
 
 
近所のおじさんがこっちに向かって何か叫んでいるのに、
すべてが異様なうなり声をあげていて、
何を言っているのか聞こえない。
 
ただもう、父にしがみついて、揺さぶられるがまま、呆然と家を眺めていた。
祈るようにというのはこういうことかと、そのとき初めてわかった。
 
まだ雪がちらつく、寒い日だった。
 
 
かやぶきの屋根からバラバラとかやが落ち、
壁や柱には亀裂が入り、ゆがんで扉はひけず、
家の外には地割れ。
夕方まで片付けに追われ、
たびたびの大きな余震でその度に外に逃げる。
残り物で夕飯をとっていた最中も、逃げ惑った。
 
ニュースで次々と明らかになる被害の大きさに絶句。
1分おきにくる地響きの度に焦り、夜も余震で眠れなかった。
 
 
翌日、福島原発の炉心溶融。
家族会議で埼玉に帰ることに決まる。
電話もネットもつながらなかったけど、
一度だけ奇跡的につながった携帯に、
一気に友たちからのメールや着信履歴が届き、嬉しかった。
 
そのまた翌日、約10時間かけて埼玉へ。
放射能の心配のなか、本当に必要なものだけを手に。
近所の人に挨拶もできないまま、
自分たちだけ福島を出て行くことが、
本当に心苦しかった。
 
 
スーパー・コンビニ・ガソリンスタンド。
ものすごい人の数に、異様な空気。
張り詰めた表情の人、みんな何か重いものを背に、
ただ黙々と動いている。
避難する車と、物資を詰め込んだ車でごった返す、
断裂の入った道路。
 
 
埼玉に着いて、イライラした。
平和すぎた。
福島とのギャップについていけなかった。
地響きの幻聴、揺れもしないのに揺れを感じる。
 
通じるようになった携帯。
メールをくれるのはありがたいけど、
何か心が通じない、伝わらない。
白紙になったこの先をも悲観して、
うつうつと、いらいらしながら、毎日を過ごしていた。

 
しかし2週間後、様子をみに福島へ戻って、はっとした。
みんな、すべてを飲み込んで、それでも前に進もうとしていた。
たくさんの自衛隊の車、各地からの救援隊員の人々、
いろんな地域のナンバー車。
被害が少なかったのに、立ち止まってしまっていた自分を恥じた。 
大変なことは起きたけれど、それでもときは流れている。
私も前に進まなければ。



変わらず流れるときのなかで、
自分を変えていき、
ときが流れて変わっていくなかで、
変わらぬ何かを築いていく。
 

みんな、生きているからこそ。






と、ここまで書いても、
すべての言葉が空々しく、
きれい事のように聞こえてしまうけれど、

それはまだきっと、2年経った今でも、
あの日のこと、それからのことを、
自分のなかで消化しきれていないからなんだろうと思う。

考えがまとまらない、というか、
思いをうまく言葉にできないというか、

とにかく、まだまだ、もどかしくてならない。
気持ちのやり場がみつからない。

毎年この日は、こんな気持ちになるんだと思う。
これからも。


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